あきと

『むずかしいことをやさしく,やさしいことをふかく,ふかいことをおもしろく,おもしろいことをまじめに,まじめなことをゆかいに,ゆかいなことをいっそうゆかいに』

三浦瑠麗「卒業生・社会へ挑戦する人たちへ」(2021年3月20日)

皆さん、ご卒業おめでとうございます。これからいよいよ社会に出ていく、大学生活とは全く違う世界が開けていくと思います。皆さんがこれから踏み出していく世界は"人から必要とされる世界"です。例えば小さい時にお父さんお母さんに自分たちが「何かをしてほしい」と彼らを必要としていた。そして自分が勉強やスポーツを頑張ればよかった。ある意味、子どもの時代から抜け出して"人から必要とされる人生"に皆さんは踏み出して行かれます。勿論、初めはオンザジョブトレーニングなど教育の要素が強くて大してそんなに「必要とされているなあ」という実感はないかもしれません。けれども貴方の進む道がたとえどのような進路であったとしても結局、人間というのは生きていくにあたって人から必要とされる、それを目指して生きていくという意味では変わらないだろうと思います。

必要とされるということ。これは案外、高いハードルです。私自身、経営者になって初めて気付いたことがあります。若い頃は自分がある種の待遇を得ることが当然だと。自分に職があるのは当たり前だと考えがちでした。しかしそれが決して当たり前ではないということに次第に気付いていったということですね。つまり自分がそれだけの価値を出しているのか、というのが職業になれた後に皆さんが直面する課題になります。先進国では軒並み若年層の失業率が高く、とりわけコロナ禍で更に失業率が悪化しました。彼らの社会がより不安定化し私たちの社会が比較的安定しているのはそういった差による所も大きいということです。

日本型雇用には様々な課題が指摘されています。それは確かなのですが、コロナ禍において運良くアジアの一国として被害が限定的だったことに加えて少なくとも日本の由来の雇用型のシステムによって表の失業率が相対的に低いのは利点にもなり得ることが分かりました。

私自身は非正規のアルバイトから職業を始めました。私より年下の研究者にとっては当たり前のことです。逆に父親の世代は博士論文を書かずに優秀な人は助手から採用され、ある意味のんびりと論文を書くことができた時代です。そこまでの成果主義でもなく、そして上が下を引き上げるのが当然とされた時代でした。その代わり個人主義の度合いは低く人によっては教授の鞄持ちをしながら万年助手と言われるような立場に甘んじた方、とりわけ女性の方は多かったと聞いています。ただ経済が上り調子で限られた人にしっかりした雇用が確保されていた時代がある種の特権であることは確かなんですけれども、彼らは高度経済成長の果実を得る反対側のコストを負っていた部分もあるのかもしれません。

私は特に若い頃、自分の世代と上の世代を比較した時に比較的不遇である、と境遇のギャップが気になっていました。それゆえに見失っていたこともあります。つまり私たちは年々、出生数が減っていてより貴重な存在になってきているということです。私も1つ年上の夫も職業を転々としてきました。1回の人生だからということで自分たちが心地良く働ける環境を優先した結果でした。最終的に落ち着いたのは今の家庭的なシェアオフィスの職場です。次第に私たちの世代くらいから「1度きりしか人生はないんだ」という意識が高まってきたように思います。

私自身は5人兄弟で育ちました。私が今、自身の子どもとして持っているのは1人です。5人兄弟の生活は楽しかったんですけど今、1人の娘を育てながら思うことというのは、やはり親子のコミュニケーションはより密接であるし、関係も濃密であるということです。

縮小均衡に向かう日本社会に私たちは生きていて成長を捨ててしまうと結果的に貧しい人、機会が与えられなかった人に分配する資源も得られませんから軽々に「成長を捨てる」と言うことはできません。その一方で成長することを否定せずに、しかし生活の質とか人生の質にはもうちょっと注意深く思いを致してもいいんじゃないかなあという風に思うんですね。そんな考え方が次第に主流となりつつあるのかもしれない。

ではその生活の質や人生の質というのはどういう風に捉えていったらいいんだろうか、ということですが、私たちはまずとりわけ新社会人となる皆さんは「自己実現」というものを目指すと思います。その自己実現というのは理想形を言えば、まずやりたいことが見つかっていてそのやりたいことを達成する。つまりその手段をどうしたらいいのだろうか。成功に向けて磨いておくべきスキルは何か。ということが端的に注目されがちなんですけれども、私はまずその前の段階として自分がどういう人生を望んでいるのか。自分がどういう風に周りから必要とされたいのか。ということを考える上では自我を適切に育てる必要があると思っています。自我というのは最初に反抗期から生じますよね。その時は自分が可愛いとか自分の思い、今の気持ちが大切。ともすれば親から見るとワガママとも受け取られかねないようなものが自我の最初の芽です。そういった可愛いと自分を思わなければ自我は育ちませんが、他方で自分が可愛いだけに終始してしまえば結局、確固たる自我が育つことはなく、単なる他者の拒絶。自分の気に沿わない他者を拒絶することで自分の心の安定を得たり、あるいは単なるワガママに終始してしまうということになります。

私が40年の人生の中で(特に後半)心掛けてきたことは、すなわち他人と一緒にやっていかなければならない。でも自分の自己実現はしたいし、自我も大切にしたい。じゃあどうすればいいか。まず自分に厳しくあることで他者を含めた周りに対する観察眼を養うということ。もう一つは自分を愛することで他者に思いやりを持てる人間になるということです。とにかく自分がどういう風に他者を見るかということについては思春期に皆さんがおそらく経験されたように、まずは母親や父親に対する呵責なき分析から始まる訳ですね。

しかし他者を断罪しきっている内はまだ自分に対する観察眼が育っている状態とは言えません。つまり自分に厳しく在る、そして自分をちゃんと愛するということが他者に対してフェアに振る舞うための礎となるという考え方です。同時に私たちが生きる現代は人と人とが繋がりやすくなりプライバシーも低下しています。他者に必要とされる人間になりたいと人間は思って生きていく、と申し上げましたが実際、現代を生きているとリアルとオンラインとの配分が上手くできにくくなり人から必要とされたいと思うが余り過剰に人と繋がってしまったりオンライン空間での頻繁な承認なしでは生きていけなくなったりしています。私自身も結構なヘビーユーザーですが、インターネットに依存しすぎたり人目に晒されすぎたりすると必ず自分のリアルな生活や体調に支障が生じます。

人前に出て仕事をする女として私は学んだことがあります。たとえイナゴの大群をかき分けて進むような毎日だったとしてもそれはどこかにオフ機能を自分の中に持っておけば何とかなるんだ、ということ。そしてリアルな繋がりこそ重要であり時にはリアルな関係でも自分に害のある関係に関しては躊躇なく関係を切断することが重要である、ということです。

女性に限りませんが、時に職場で不快な思いをすることがあります。旅立ちの晴れの日にするようなめでたい話ではありませんが、そういう時にどうしたら良いのかということは日頃から考えておく必要があるでしょう。同期同士、同僚同士、人間同士私たちは助け合って生きていかなければなりません。2017年以降、世界中で「#metoo

宮台真司×藤井聡「日本の劣化と大衆社会」(2021年8月28日)

【前回のおさらい】

過剰自粛、ファクトに基づかない感染症対策が行われ人々がコロナに怯え最終的に「弔う」ということすら無くしていく。「剥き出しの生」が重視され「人間の尊厳」がほとんど0のように扱われている。こういう問題がヨーロッパでもあり日本でも特に酷い、と。まずは身の回りの中で社会というものを再構成することが必要。

宮『柳田國男が"世間の話"という70年以上前の本の中で"日本人、日本には社会がない。代わりに世間だけがある"と書いている。その意味は社会学的に言うと、社会というのはヨーロッパ的な言い方をすると自分がいる、しかし他人もいる。自分が所属する内集団もいる。自分が所属しない数多の外集団がいる。全ての人、全ての集団が共通に支えられている共有財、コモンズにコミットする構えをパブリックマインドと言って、その支えているプラットフォームをパブリックと言う。

柳田國男に言わせると、それは日本人には全く無い。代わりに存在するのは"お上の視座"だ。お上が何とか色んな人たちの集団の間を調整してくれるからその賢明な"お上"に従っていればいい。自分では考えない。これが日本的なメンタリティだった。とすると、上がクズだったら日本は終わり。だから今の日本は終わっている。

もう1つ「世間」という概念があって"自分はこれが正しいと思う"じゃなくて自分としての自分は別にして"神から見て、自然の摂理から見てどうなんだ"っていう風に、自分の直接的な思いの外側から物事を考えることが必要。そのためには実は仲間っていう概念が日本には必要。仲間がいると自分としての自分、しかし仲間の為に働く自分っていうのがいて、さらにその仲間の同心円状的な延長線上で初めて"世間"という概念が出て"仲間が許さない"の延長線上で"世間が許さない"っていうのが出てきて、それがパブリックと同じ機能を果たすっていうのが柳田の発想。

今、仲間っていないでしょ?ウヨ豚を見て下さい。ウヨ豚の周りに彼の為に犠牲になってくれるような仲間は絶対にいない。同じように今の若い人たちって大学生レベルで言うともう友達がいないんですね。100人いて友達がいるのは1人ぐらい。彼らの言う"友達"は僕らの言う"知り合い"。友達の定義は簡単で「悩みを相談できるか」なんです。けどそうすると悩みを相談できる相手がいるのは100人に1人か2人。さらに親友の定義も明白で「悩みを聞いたら人肌脱いで自分が犠牲になっても何とかするぞという構えを持つ奴」が親友なんですけど、親友を持ってる人間は100人いたら1人もいないっていうのが今の20歳前後の学生なんですよね。

そういう人間が神経症、不安から来る埋め合わせの反復ではない腹の底から湧き上がるような価値観にコミットできるかと言ったら、できるはずがないんですね。親友も仲間もいない。当然、そういう奴は恋人も作れない。セックスする相手しかいない。しかし、そこには絆が無い訳です。守る存在がいないって言う時にヨーロッパの社会であれ日本の共同体であれ世間であれ、残念ながら人間は自分の損得を超えた振る舞いを出来るはずが論理的に無いんです』

藤『やっぱり我々の時代とは随分、違うんですね。実際、僕も質的に感じるのは大学の講義のやり方を変えてないんですけど、かつてはそれなりに人気があって僕の授業を面白がる学生が多かったんですよ。まぁ僕が書いた教科書の中身を喋るんですが話の8割はそれに幾分、付随するような話をずっとやって15回全体でこの教科書に書いてあるフィロソフィー、いわゆる思想を伝えるっていうのが狙いで僕は講義を組んでてその手の授業は皆、割と面白がってたんですが、10年ぐらい前から本当に人気が無くなって「先生、そんなんどうでもいいから早く教えて下さいよ」みたいなことになって僕の定義からすると「人間じゃないの?」って思うんですけど。中には勿論、面白がる学生もいてそういう人は研究室に入ってきてくれたりするんですが、本当にこの10年ぐらいの質的な転換は非常に大きいような気が個人的な感触でするんですけど』

宮『同感です。僕は"人寄せパンダ"と呼ばれていて中学高校で大学から言われて講義をすることが多いんですが、中学高校だと実はまだクズは少ないんです。自分が社会でやるべきことは何なのか、自分の損得を超えた視座から考える力があるんだけど、大学生は10年ないし15年くらいの間それが急速に失われています。僕が見るところ大学1年生から自発的に選べるインターンシップの授業が始まるんですけど、事実上1年生から授業あるいは授業外の資格取得。ゼミの選択も全部、就職活動の一貫になっています。だから社会についての関心、直接的な自分の価値観から来る欲求。そういうことではなく全部「沈みかけた船の中での座席争い」の為のレクチャーとかゼミ参加になっているので大学生全体としてクズ化が進んでますよね』

藤『それは定義上、人間じゃないですよね。だって「何かの為に」ばかりですから自分の焦点が自分の運命に向かってない訳ですよね。座席に向かっている訳で、自分の人生をどうするかに向かっていないですから、弔う気持ちが無いっていうのと同じですよね。人間の尊厳が無くなるでしょうから、そこに関してどれだけ喋ろうが関係ないんですね、座席を取ることには』

宮『僕は西部邁先生と上司と部下の関係だったんですね。東大の駒場キャンパスでね。当時からよく周りから見ると口喧嘩に見えるような論争をしていましたし、ある番組で僕が西部さんを罵ったら西部さんが途中で帰っちゃうっていうこともあったりしたんだけど、楽屋に行ったら西部さんがベロンベロンに酔って待ってて「宮台君、素晴らしかったよ。これからは君の時代だ、間違いない」と言ってくれることがあった。

特に若い人に伝えたいんだけど、頭山満という

人が言ってたように「意見は意見で、お前が右か左かっていうのはどうでもいい。マトモかクズかだけを俺は見ている」と。マトモであればそこから先、右であれ左であれ"自分を捨てて他人の為に頑張る"という利他性や貢献性を発揮できる。ただそれを支えてくれるイデオロギーは違うかもしれないけど。それって人間の個人的な履歴の中ではほとんど偶然によって決まってしまう部分もあるからね、それはそれなんだという発想。頭山満の発想は西部邁さんにも引き継がれていて、その意味でイデオロギーの奴隷のような存在。イデオロギーが違うからコイツは敵認定?国籍が違うから敵認定?「はい、即死して下さい」ってやつですね』

藤『そういう問題、ほんとに大変ですね。要するに状況的にずっと悪化してきている、と。社会というものが無くなって世間すら無くなって友達もいない、と。そうすると"剥き出しの生"しか無くなって、それこそ性欲とか食欲とかその辺のものしかない、と。あと将来に対する漠然とした不安だけで生きていく。ほんとに大衆社会論が描いている最悪の末人たちに日本人がなりつつある、と。その状況の中で社会科学っていうのはどこかで"どうすればいいか"という問いに対するレスポンスとして出てきたものですから、マルクスマルクスウェーバーウェーバー。デュルケムはデュルケムでそれぞれ処方箋を描いた訳ですけど、日本社会の大衆社会化がここまで進んだ中でどうしていくかについて如何ですか?見通しというか…』

宮『まず大事なのはね共同体的な、つまり仲間の記憶っていうのを持てるようにすることだと思うんですね。末人っていうのは恐らく記憶なき存在と言ってもいいと思うんです。仲間がいない、恋人がいないという人間がマトモに性欲、食欲を持てるだろうか。結局、性欲や食欲の発露も幸せや絆の中での

 

 

ひろゆきvs三橋貴明(2021年6月29日)

三『1人産めば1000万円支給、こういう話をするとすぐ"そんな高額を支給する財源がどこにあるんだ"という反論が出ますよね、と。でも既に社会保障の予算は無くて年金もどうやって払うのか明確に見えないまま突き進んでいるので、10年後どうなるかは分からないけど1人産んだら1000万円支給するというのは例えば国債をバンバン発行したりすればできるんです。と発言されていますが、ひろゆきさんって緊縮財政的な思想をお持ちなのかなと思ってたからビックリしたんですけど、その辺り何か変わられたんですか?』

ひ『いや、別に是々非々で無用な大学に補助金を出すくらいだったらとっとと潰した方がいいんじゃね?とかは思っているので、一概に全体的に減らすべきではなく必要なものは出すべきだし、不必要なものは減らすべきっていうだけの話です。そうじゃない考えの人って逆におかしくないですか?不必要なものに出すべきだ、とか』

三『不要なものと有用なものの解釈が人によって異なると思うんですけどね。勿論、大学の問題は仰る通りだと思うんですけど。あるいは子育てとか少子化対策にガンガン国債を発行してお金を支出するというのは至極真っ当だと思うんですけども。ひろゆきさんは例えば私たちが主張しているような少子化対策だけじゃなくてコロナ対策は当然ですけど国防・防災・社会保障、日本国民が豊かで安全に暮らす為に政府は国債を発行して支出して構わない、と。これは勿論、制限があって制限は国債金利が上がるとか財源じゃなくてインフレ率が許す限りは出来ると主張してる訳なんですが、この辺りはどうお考えですか?』

三『ざっくりと言っちゃうと結局、国防っていうと国防の中にもどうでもいい費用が含まれてたりするじゃないですか。なので全体としてこうですか?と言われても是々非々で、としか答えられないんですけど。例えば社会保障とかでも僕は高齢の人で昭和の人であんまり年金払ってないけどすげえ貰ってたりする人は減らすべきだと思っているので、一概に社会保障だから出すべきっていうのは何かちゃんと話をしようとするのは出来なくなっちゃう言い方なのかなという気はします』

三『勿論ミクロな部分では本当に必要なものと完全に不必要なものとか、一部の人だけがお金が儲かるような支出もある訳なのでそこはそうなんですけど、根底に今の日本って自民党の政治家がまさにそうなんですけど、ミクロな議論をすっ飛ばして一概に財政の赤字とか国債の発行はダメだっていう自民党の政治家が結構多いんですよ』

ひ『でも自民党って結構、国債刷りまくってません?』

三『実際そうなんですけど議論になると毎回「財政赤字は恥ずかしい」とか「国債発行残高を減らすべきだ」っていう勢力の方が強いですよ。2020年度は発行しましたが、』

【体罰は必要?】戸塚ヨットスクール校長vs夜回り先生

体罰と暴力の違い

戸塚宏「目的が違う。体罰は教育の為。暴力は自分の利益の為。体罰をしたって自分に何の利益もない。マスコミに叩かれて損失が起こるだけ。目的の違うものを一緒にしてはいけない。マスコミがやってる議論というのは"体罰は悪"という大前提があって、それに沿って議論ばかりしているから体罰の定義も出来ない。1番の問題は善悪を知らないこと。善悪とは何か。自分たちが善のつもりになっているからおかしなことになる」

水谷修「問題の根本が全然、違う。体罰は先生が生徒に対して行うもの。DVは配偶者に対して行うもの。虐待は親が子どもに対してやるもの。こう言われます。例えばタバコを吸ってはいけない地域でタバコを吸っている人がいたとします。やめなさい、みんな迷惑してるでしょと言ってバチンと殴ったらこれは体罰ですか?完全な暴行。怪我をさせたら傷害ですよ。それがどういう訳か、夫婦同士ではDVと呼ばれ、親子間では虐待や躾と言われて。嫌な言葉ですね。学校だったら体罰。どれも暴行・傷害なんです。人様を傷つける。体罰やDVには、かつての旧日本国憲法における"夫は妻より偉い"とか"子どもより親は偉くて支配でき自分の所有物だ"とか"学校の中で先生は生徒を自分の管轄下で支配できる"とかそういう傲慢な思想がある。今の憲法の中でも体罰という言葉を残したことが間違いで、体罰なんか存在しない。すべて暴行。怪我させれば傷害。殺せば殺人。それだけのことです。愛があろうが何があろうが人様を殴ってはいけない。戸塚さんは根本的なことを勘違いしている。あらゆる人間は日本国憲法基本的人権の中で子どもであれ誰であれ同じ。偉い偉くないではなく、みんな等しく同じ人間なんです。上も下もない。それが現代の日本国憲法に書いている基本的人権の考え方です。体罰をするのは人権無視、甚だしい。道路で人を殴っているのと同じ。だって学校だったら家庭だったら憲法に従わなくていいんですか。憲法で暴力は禁止しているんですからね」

戸塚宏「権利って何なの?」

水谷修「人が生まれながらにちゃんと幸せになり、ちゃんと自分の人格を肯定され自分を守ってもらえるものが子どもたちも我々も持っている権利じゃないですか。但し、あらゆる人間が勝手に権利を主張したら大変なことになるから国民の理解の元に法律がある訳ですよ。お互いがお互いを守り合うために。その法に関しては我々が認めている以上、従わなければならないしその法を変えるならば国会議員を通して国会の場で変えていただくだけのことです」

戸塚宏「貴方みたいに権利の意味を知らない人が権利という言葉を使うからダメなんだ。権利という言葉がいつ出来たか知ってる?あれは江戸末期に出来たんだ。欧米使節団が何回か行ったでしょ。その時に向こうの文化を持ち帰り和訳しないと使えないから和訳していたんだけど、権利だけが最後に残ってしまった。日本にそういう文化が無いから。rightを萩藩の西周が権利と訳した。それが良いということで権利が流行った時に福沢諭吉が大反対した。rightは権利じゃない。2つの意味で間違っている、と。もしrightを権利と訳すと将来に禍根を残すと言っている。考えてみたら分かる。福沢諭吉は天才じゃないか。西周は単なる秀才だ。そりゃ福沢諭吉の方が正しいよ。だから福沢諭吉がrightを何と訳しているか探してみればいいんだ」

水谷修「言いたいことは分かります。要は権利と義務があって子どもとか生徒には親や先生の言うことを聞く義務があるってことが言いたいんだと思います」

戸塚宏「根本的に分かってないからそういう言い方になるんだ」

水谷修「rightには権利と同時に義務を伴うものだ」

戸塚宏「そういうことを言いたいんじゃない。福沢諭吉の訳を見ればいいんだ。通義。義に通ずる。どういう意味は分かる?

 

死刑廃止、終身刑導入に関する雑記

死刑廃止条約の批准

まずは署名すること(条約の趣旨と内容に基本的に賛同すること。ただし法律の力によって縛られることはなく条約の実行は義務ではない)

現状維持は衰退。そのまま続けていて犯罪被害者は減るのだろうか。事実として死刑があるのに凶悪事件は起こっている。この世から被害者が0になることはあり得ないが、減らしていかなければならない。

死刑を廃止した国の犯罪発生率はどうなっているか。1981年に死刑を廃止したフランスの統計によると死刑廃止前後で、殺人発生率に大きな変化は無かった。

韓国でも199712月、一日に23人が処刑されたがこの前後で殺人発生率に違いが無かった。

また、人口構成比などの点でよく似た社会といわれるアメリカとカナダを比べても、死刑制度を廃止していない米国よりも1962年に死刑執行を停止し1976年に死刑制度を廃止したカナダの方が殺人率は低い。

2015年に死刑廃止国は世界の過半数になった。10年以上死刑の執行をしていない事実上の廃止国を含め144カ国が死刑を廃止しており、存置国は日本を含む55カ国。このうち、2020年中に死刑を執行したのは日本を含む18カ国だった。

OECDの加盟国38カ国のうち、死刑制度を残しているのは米国、韓国と日本の3カ国だけだが、米国は23州で死刑を廃止し、3州が執行停止を宣言しており、連邦レベルでも20217月以降、死刑の執行が停止されている。また、韓国は1997年を最後に20年以上死刑を執行しておらず、事実上の死刑廃止国。

宮台真司「菅政権を振り返る」(2021年10月10日)

菅義偉みたいな人が総理大臣になれる国って本当に面白いよね。100点満点で言うと「50点」です。公共性の観点から0点。加速主義の観点から100点。これで高市早苗が総理になれば加速主義の観点からすると300点くらいになりますね。

加速主義というのは元々、右派加速主義から始まっていると言われています。発想自体はローザ・ルクセンブルクなので戦間期なんですよね。左派から右派に移転してその後また左派加速主義っていうのが出てきました。実は加速主義っていうのはAccelerationismと言って右も左も従来の骨格を壊しちゃったんだよね。つまり右でも左でも結局、最後に「ぶっ壊してしまえ」っていうのが加速主義という発想です。

それは左にとっても右にとってもまず1回ぶっ壊さないと従来あるもののincrementalism(インクリメンタリズム)って言うんだけど、段々移行するみたいな官僚主義みたいなやり方だともう無理だ、と。まずぶっ壊せっていうのが加速主義なんですよ。

僕も基本その立場なんですけど、特に日本では本当にそれが必要なんだっていうことが重要です。例えばオリンピックへの固執っていうのは実は後進性への表れなんですよね。先進各国はオリンピックを引き受けたがらない所が多いし、ほとんど各都市も固執していないんです。でも元々、後進国だった1964年の日本にとってはオリンピックを成功させることが非常に重要だった。それで実際、統計的に言うと国民が自信を持って先進国の一員だと思うようになった。

でも今の日本は過去25年間、ただひたすら実質所得が下がり韓国にはとっくに平均賃金も最低賃金も抜かれまくっているという本当に美しい国なんですよ。これって政権が交代したくらいでは変わらないんです。何故かと言うとこれは政治の問題じゃないからです。僕の言葉で言うと「日本全国どこを切っても金太郎飴の安倍菅の顔」なんですよ。菅について言えばあんな面した奴が至る所にいるわけ。政界、官界、民間、アカデミズム。その意味で菅義偉は日本の象徴です。

三浦瑠麗が語る、性被害の実体験について

14歳だった1995年、学校の帰り道での出来事だった。数人の男たちに突然、車に引きずり込まれた。しかし自分の身に起きたことを母親にも誰にも言えなかった。「母親を心配させたくない」とか普通の子が思うようなことを思った。自分に生じた被害をなかったかのようにする防御反応が働いたのだ。大切な人にほど言いたくないもの。話してくれること自体がすごく奇跡的なことと考えた方がいい。

茂木健一郎「大学生が絶対やるべきこと5選」(2021年6月27日)

①失敗をしまくる

とにかく「失敗の数が多い方が良い」ということは間違いないので、あえて失敗してほしい。DeepMind社の人工知能でも失敗した数だけ学習曲線が上がるので、とにかく失敗しない奴はダメだよ。それは年齢関係なくやってほしいんですけど、大学生になるとそろそろプライドとか自分らしさとかそういうのに囚われちゃってるとこれができなくなる。「らしさ」っていうのが1番良くないんですよね。「らしさ」は仮説では良いんですけど、常に修正されるべき仮説なので。

弱い絆を大事にする

自分を取り囲むネットワークがどういう構造になっているのかというのをちゃんと思い描く。「弱い絆の理論」というのがあって、新しい仕事とか偶然の幸運は弱い絆から来るので例えば、友達の友達に良いものを持っている人がいるかもしれない。そこにいかにアクセスするかということが実は学生時代は1番大事なんです。偏っていないかとかそういうことはチェックしていただきたいなと思います。そこを上手く設計するみたいな視点ができるとベストですよね。動物行動学的に言うと「毛づくろい」グルーミングと呼ばれるところまでいかないとダメなんですよ。一緒に何かをして互いに絆があるという感情を持つことが大事。そういう形で毛づくろい行動をするというのは非常に重要ですね。「お互いに弱みを見せる」とか「共通の敵を作る」とか。いわゆる「ベイズ推定」と言って、みんなが好きなものを好きって言ったって別に大したことないじゃん。そうじゃなくて意外とレアなものが好きって「そうなんだ!俺もなんだよ!」っていうのは意外と近くなるね。

③失恋とビジネス

人間の評価って1種類じゃないなあってことがよく分かるっていうか

 

④全力

 

⑤感受性

 

成田悠輔「格差をもっと作り出そう」

そもそも日本って経済格差が大して広がってない国なんですよね。例えば所得、収入、資産の格差を見てもここ10年20年くらいで日本社会ってほとんど格差が広がってないってことが知られてるんです。日本で起きているのは格差の拡大ではなく、ある種の一億総貧困状態が起きてるんだと思うんですよ。

若新雄純「高校生へ贈る"はじめての投票・選び方"」

政局が混乱する中で先生や親が「どこの党が良いのか」と聞かれても答えられないと思うんですよね。僕はまぁ20歳前後の頃は「意識高い系」の筆頭のような若者でしたけど、それでもよく分かってなかったんですよ。一生懸命、投票に行かなきゃと思ってたけど政治の文脈だったり自分のポリシーを持つのに時間がかかるじゃないですか。だから最初の選挙をどうやって選ぶのかは大切だけど、とても難しいと思うんですね。いろいろニュースを見てたら学校でも選挙のことを先生が指導しているらしいんです。だから高校3年生の18歳は投票するんですよ。んで先生は「候補者の公約をしっかり見て…」とか「正しい情報を収集して…」と言いますけど自分が20歳の頃をイメージした時にですよ、たくさんの候補者がいるなかで自分のポリシーを持ってないのに納得のいく選択ができるのかというと僕は相当、難しいと思います。だからといって家族の中でも誰に投票するのかといった会話はタブー視されている所も多いよようで「お前どうする?」みたいな会話が起きづらい訳じゃないですか。そうするとニュートラルかもしれないけど、選挙の時において「ニュートラル」という言葉は幻というかよく分からないですよね。そこで僕はですね、考えました。

【不完全版、若新流候補者選びメソッドver1】

 

落合陽一「若者にとって大学をもっと魅力的な場所にするには」(2019年2月11日)

1つ重要なのは先生が大学だけの価値観で生きてないと割と自由っていうか学び直しで大学にもう1回入ってくるのも「全然いいよ。博士号取ると世の中が違って見えるよ!」みたいな感じがすごく重要。軽いように聞こえるが、この楽しさが知的興奮のベースだと思う。そういうシニカルではなく、ポジティブな考え方でアカデミックを初心で見て皆は研究業界に入ったはずなのに、いつのまにか価値尺度が論文数のゲームになってしまうとまたちょっと違うゲームに移っちゃうっていうか何かそれを持ってる自分を否定する経営者の自分がいたり、経営者の自分を「お金より大切なものがあるだろ」と思って研究してる自分がいたりとかそういう複数の価値尺度を持ってる箱を作って向いている子は実業の方に入れたりとか「この子はノってるから研究をやらせた方がいいな」と思ったらどうぞみたいな感じとか「アートやりたいので留学行きたいです」と言ってたら「じゃあいってらっしゃい」みたいな感じのスタイル。どうやって自分の所に一箇所に囲ったりしないかってことがポイントだと思う。日本の先生は学生を囲いたがるんですよね。経営者もそうなんですけど。あんまり囲わない方が社会にとって良いと思ってます。

宮台真司『コロナと社会』(2021年1月25日)

罰則は義務に違反したから。義務は権利と表裏一体。なので政府が権利を保障してくれているのかが問題。そもそも憲法は市民ではなく政府に命令する仕組み。政府が憲法の元で僕たちをちゃんと守るという義務を果たしていると僕らが思えば義務も果たそうと思える。そういう相互性がある。ところが日本の政府は義務を果たしてるでしょうか。ファクターXのおかげで第3波までは日本の感染率はアメリカの100分の1だったけど今、30分の1になった。アジアの中でも人口当たりの死者数が韓国の1.5倍、中国の3.7倍、台湾の41倍。アジアの中ではパーフェクトな負け組ということ。テレビで「今日も新規感染者が減りました」と言ってるのはマスコミのデタラメ。新規感染者は完全に意味がない。なぜなら検査数に相関するから。人々が検査を受けようと思っているか、保健所や保健所関連の機関が真剣に検査しようと思っているか次第で変わる。なので基本、重症者数か死者数でカウントする。情報の出し方について政府がマスコミを規制しなければならない。「感染者数ではなく重症者数と死者数を見て上がっているか下がっているか言え」と言わなければならない。まずそういう義務も果たしていない。病床が逼迫していると言われるが、人口当たりの病床数が世界一多いのは日本。それもダントツで。病床が逼迫するのはおかしい。これも政府が義務を果たしていない証拠。

立花孝志vs桜井誠(2019年9月17日)

立花孝志=T 桜井誠=S

 T:こんにちわ、どうも。

S=宜しくお願いします。

T=いや〜色々とすみません。ちょっと勉強させていただきに…

S=とりあえずちょっと汗を…

T=いやいや、大丈夫です。多分、2回目ですよね。東京都知事選の時に。

S=そうですね、あの時ね。えっと今回の件ね簡単に言えば竹島問題の発言でしょ。あれはどう考えても貴方の失言だよね。

T=うん、そこに関しては否定はしません。そう取られるっていう発言をしてることについては。まぁ冒頭ね小池晃さんの話を出してる所からして僕自身は党の代表として竹島の問題を個人の意見として出すのは正直、控えてたっていうか避けてた所はありまして。うちの所属してる丸山穂高議員が相当、激しいことを言ってるために…

S=「竹島を取り返すには戦争しかない」っていう、あの意見は私と同じなんですよ。ただそこで貴方が余計なことを言うもんだからネットでね大勢の人たちが「NHKをぶっ壊す党は一体何なんだ」ってなったんでしょ?だからはっきり言って火消しでしょ?

T=いや、火消しというか僕はご存知の通り炎上させることが僕の役割なんで火を消そうっていう気は無くて…

S=いや、それでもねここまで燃え上がったら火消ししないとしょうがないじゃないですか。

T=いや、燃えるも何も今も私は被疑者で警察の厄介になってるくらいなんで(笑)

S=それとこれとは別だから(笑)

T=「竹島が日本の領土である」ってことは多くの国民がそうだと言う所であるってことは自覚してるんですが、一方で「武力を行使して取り返せ」っていう人がどれぐらい居るのかっていうのがちょっと正直、知りたい。勿論、領土であるから自衛権の行使ができるから自衛隊を派遣するんだっていうことについてどれぐらいの人がそれを望んでるのかみたいなことも知りたいなあって思ってるんですよ。

S=だったらそれを言えばよかった。それを生放送のところでガンッと言えばね。あん時は多分、カメラマンに言われてそのまま調子に乗って喋っちゃったっていうね。その程度だと思う。

T=そこはホントにだからごめんなさい。その程度っていうよりも僕自身は2つの側面を持ってると思ってて党の代表と立花個人。党の代表としては直接民主主義って言ってるのであまり右にも左にもっていうかこういう問題に関しては結論を出さない。んでまさに共産党が簡単に言えば逃げとる訳ですよ。10日間も放ったらかしにして良い加減にしろよ、と。共産党はこういう考えがあってね、竹島は日本の領土ではないみたいな考えを持ってるんだったらそういう考えもあるから出てきたらいいんじゃないの?っていうことを1つ紹介したつもりなんですよ。言い訳にしかならないかもしれないですけど。僕はそのつもりだし最終的に僕は竹島を武力で取り返すのは個人的には反対です。今、武力で行使した時にやっぱり犠牲者が出る訳でそれとは別に韓国との交渉をね、まぁこれだけ無茶苦茶なことを韓国が言ってきてる状況の中でね、どっかで貿易を停止するなり日韓国交断交なども含めてね…

S=貴方とね、かなり意見が一致してるんですよ。ただね今回の件があったからはっきり言いますけれども後付けにしか聞こえないんですよ。今回のデイリーニュースかデイリースポーツだったっけ?あそこで周りから皆に聞かれてね、韓国に70年間も領有されてるんだから強制占拠してるんだから韓国にくれてやれって言ってるようにしか聞こえない。それで後になって慌てて謝罪会見というか言い訳の動画を上げると。それはダメですよって言ってるんですよ。

橋下徹「日本人は読解力不足」(慰安婦発言の騒動について)

僕は韓国の方、元慰安婦の方を侮辱する意図は全くありません。日本人、日本国は慰安婦問題についてはずっと背負っていかなければならないですから、その責任を回避する意図は毛頭ありませんし、韓国や慰安婦の方を侮辱することは絶対にあってはならないことです。僕は慰安婦を容認したことは1度もありませんし、まぁ英語を喋ることができないもんですから「必要」という言葉で慰安婦制度を認めたということで世界にそういうニュースが発信されていますけど、僕は「慰安婦制度を容認する」などと1度も言ったことありません。

ただ僕が言いたいのは、日本も悪かった。日本の慰安婦制度も悪かった。2度と繰り返してはいけないことだけれども、女性の人権ってことを言うのであればアメリカも自分たちが何をやったのかということをもっと直視してほしいですね。これはアメリカのみならず世界各国において戦場の性において女性を活用していたのは原罪たる事実ですから日本は勿論、悪い。だけれども「性奴隷を活用していた」ということで日本だけを非難することで自国がやったことに蓋をするのではなく、自分たちがやったことについても真摯に直視してもらいたいですね。

Q.今回アメリカとこういう形になっていることによって日米関係において影響が出てくると思うんですけども…

A.何にもないですよ。何でですか?だって日本だけが一方的に批判を受けて侮辱を受けて「日本だけが性奴隷を使っていた」ってことを世界から言われていて、何でそのことに対して今まで誰も意義を申し立てないんですか?何が日米関係なんですか。本当に日米関係があるんだったらね、全然違うことに対しては「違う」って言わなきゃいけないじゃないですか。

Q.日本語でも「僕は必要だと思った」っていう風に受け取ってしまったんですが。会見の文字起こしの字面を追っていくと…

A.それは日本人の読解力不足ですから、日本語の「必要」までは変えませんが、外国人に対しては「その言葉は変えてほしい」と言いますよ。誤解を与えたのであれば「その単語(Necessary)は変えてほしい」ということはしっかり言います。

Q.普通の会話の中では細かい言葉の定義にはそこまでこだわらなくてもいいと思いますが私たち新聞社が記事を書く時もこだわりますし、政党の代表がテレビの前で喋る時にも言葉の細かい意味を含めて、特にこういった海外の…

A.じゃあ囲み(取材)全部やめましょうか?いいですよ。やめましょうか?1年に1回の記者会見だけにしましょうか?朝日新聞がそうやって言うのなら辞めます。そこまで全部チェックして話すことを一言一句チェックして貴方たちは皆、校正から何からの部隊があるのかも分かりませんが、僕は何にも用意せずにここで喋ってるんですよ?公党の代表だからって言うんだったらやめますよ、明日から。いいですか?僕が皆さんに言いたいのは「揚げ足を取るんじゃなくて文脈でしっかり判断しろ」ってことですよ。朝日新聞なんか最低ですよ。「当時」って言葉を全部、外して「橋下は慰安婦を必要だ」って書いて。毎日新聞タブロイド紙も最低ですね。「慰安婦は必要でしょ」ってあんなん週刊誌以下ですよ。そんなんだったら明日から囲み(取材)やめます。これ任意でやってるので。

落合陽一「大学の教育現場で感じる問題点」(2019年2月11日)

大学に行くと価値が一元化していてジャーナルを何本書いたか、国際会議に何個出したか、そしてそれはどのくらい引用されたのかみたいな話だけになってしまっている。本来、価値が多元化していて意味がある本当のアカデミズムの世界とはちょっと違ってきたなと思う。論文を価値尺度にしたパワーバランスゲームになると本来の意味で科学技術に対して貢献していると言えるのだろうか。僕は貢献してないと思う。新しい価値観とか新しい発見とか人類の知に対する喜びをどうやって見出していくかってことをやるために皆さん研究者になられたはずなのに実際やってることは指標がどうだペーパーが何本書けたバジェットが何本取れたかを自慢し合っているおじさん達の集まりになったらあんまり魅力的に映らないから進学しないのはそれはそうだろうな、と何となく思う。1番問題だと思っているのは大学で出てきたものが社会に中々、出てこないこと。例えば僕の分野の先生だと俺がこの発明をしたんだっていう人が結構いるんですけど、その発明をした頃に研究をしてただけでおそらく世の中に出てくる発明には寄与していないんですよ。知財とか新しい特許には。つまりその論文を読んで研究して新しいものが出てきた訳ではなくて大体、同時代性があるものって違う人がひらめいて物を作ってしかしながら同じ時期に同じようなことをしていたから今、椅子を温めている大学の先生方がすごく多くてですね、それってすごく意味がないなあと思っていてお金をたくさん投資して研究開発をしてるんだけど出てくるものっていうのは実際の世の中と紐付いていなくてアカデミック村であの時、流行っていたあれが出てきて評価されているってのはあんまり楽しくなくて僕はたくさんロールモデルを作っていく人間になりたいんですよ。