あきと

『むずかしいことをやさしく,やさしいことをふかく,ふかいことをおもしろく,おもしろいことをまじめに,まじめなことをゆかいに,ゆかいなことをいっそうゆかいに』

宮台真司×藤井聡「日本の劣化と大衆社会」(2021年8月28日)

【前回のおさらい】

過剰自粛、ファクトに基づかない感染症対策が行われ人々がコロナに怯え最終的に「弔う」ということすら無くしていく。「剥き出しの生」が重視され「人間の尊厳」がほとんど0のように扱われている。こういう問題がヨーロッパでもあり日本でも特に酷い、と。まずは身の回りの中で社会というものを再構成することが必要。

宮『柳田國男が"世間の話"という70年以上前の本の中で"日本人、日本には社会がない。代わりに世間だけがある"と書いている。その意味は社会学的に言うと、社会というのはヨーロッパ的な言い方をすると自分がいる、しかし他人もいる。自分が所属する内集団もいる。自分が所属しない数多の外集団がいる。全ての人、全ての集団が共通に支えられている共有財、コモンズにコミットする構えをパブリックマインドと言って、その支えているプラットフォームをパブリックと言う。

柳田國男に言わせると、それは日本人には全く無い。代わりに存在するのは"お上の視座"だ。お上が何とか色んな人たちの集団の間を調整してくれるからその賢明な"お上"に従っていればいい。自分では考えない。これが日本的なメンタリティだった。とすると、上がクズだったら日本は終わり。だから今の日本は終わっている。

もう1つ「世間」という概念があって"自分はこれが正しいと思う"じゃなくて自分としての自分は別にして"神から見て、自然の摂理から見てどうなんだ"っていう風に、自分の直接的な思いの外側から物事を考えることが必要。そのためには実は仲間っていう概念が日本には必要。仲間がいると自分としての自分、しかし仲間の為に働く自分っていうのがいて、さらにその仲間の同心円状的な延長線上で初めて"世間"という概念が出て"仲間が許さない"の延長線上で"世間が許さない"っていうのが出てきて、それがパブリックと同じ機能を果たすっていうのが柳田の発想。

今、仲間っていないでしょ?ウヨ豚を見て下さい。ウヨ豚の周りに彼の為に犠牲になってくれるような仲間は絶対にいない。同じように今の若い人たちって大学生レベルで言うともう友達がいないんですね。100人いて友達がいるのは1人ぐらい。彼らの言う"友達"は僕らの言う"知り合い"。友達の定義は簡単で「悩みを相談できるか」なんです。けどそうすると悩みを相談できる相手がいるのは100人に1人か2人。さらに親友の定義も明白で「悩みを聞いたら人肌脱いで自分が犠牲になっても何とかするぞという構えを持つ奴」が親友なんですけど、親友を持ってる人間は100人いたら1人もいないっていうのが今の20歳前後の学生なんですよね。

そういう人間が神経症、不安から来る埋め合わせの反復ではない腹の底から湧き上がるような価値観にコミットできるかと言ったら、できるはずがないんですね。親友も仲間もいない。当然、そういう奴は恋人も作れない。セックスする相手しかいない。しかし、そこには絆が無い訳です。守る存在がいないって言う時にヨーロッパの社会であれ日本の共同体であれ世間であれ、残念ながら人間は自分の損得を超えた振る舞いを出来るはずが論理的に無いんです』

藤『やっぱり我々の時代とは随分、違うんですね。実際、僕も質的に感じるのは大学の講義のやり方を変えてないんですけど、かつてはそれなりに人気があって僕の授業を面白がる学生が多かったんですよ。まぁ僕が書いた教科書の中身を喋るんですが話の8割はそれに幾分、付随するような話をずっとやって15回全体でこの教科書に書いてあるフィロソフィー、いわゆる思想を伝えるっていうのが狙いで僕は講義を組んでてその手の授業は皆、割と面白がってたんですが、10年ぐらい前から本当に人気が無くなって「先生、そんなんどうでもいいから早く教えて下さいよ」みたいなことになって僕の定義からすると「人間じゃないの?」って思うんですけど。中には勿論、面白がる学生もいてそういう人は研究室に入ってきてくれたりするんですが、本当にこの10年ぐらいの質的な転換は非常に大きいような気が個人的な感触でするんですけど』

宮『同感です。僕は"人寄せパンダ"と呼ばれていて中学高校で大学から言われて講義をすることが多いんですが、中学高校だと実はまだクズは少ないんです。自分が社会でやるべきことは何なのか、自分の損得を超えた視座から考える力があるんだけど、大学生は10年ないし15年くらいの間それが急速に失われています。僕が見るところ大学1年生から自発的に選べるインターンシップの授業が始まるんですけど、事実上1年生から授業あるいは授業外の資格取得。ゼミの選択も全部、就職活動の一貫になっています。だから社会についての関心、直接的な自分の価値観から来る欲求。そういうことではなく全部「沈みかけた船の中での座席争い」の為のレクチャーとかゼミ参加になっているので大学生全体としてクズ化が進んでますよね』

藤『それは定義上、人間じゃないですよね。だって「何かの為に」ばかりですから自分の焦点が自分の運命に向かってない訳ですよね。座席に向かっている訳で、自分の人生をどうするかに向かっていないですから、弔う気持ちが無いっていうのと同じですよね。人間の尊厳が無くなるでしょうから、そこに関してどれだけ喋ろうが関係ないんですね、座席を取ることには』

宮『僕は西部邁先生と上司と部下の関係だったんですね。東大の駒場キャンパスでね。当時からよく周りから見ると口喧嘩に見えるような論争をしていましたし、ある番組で僕が西部さんを罵ったら西部さんが途中で帰っちゃうっていうこともあったりしたんだけど、楽屋に行ったら西部さんがベロンベロンに酔って待ってて「宮台君、素晴らしかったよ。これからは君の時代だ、間違いない」と言ってくれることがあった。

特に若い人に伝えたいんだけど、頭山満という

人が言ってたように「意見は意見で、お前が右か左かっていうのはどうでもいい。マトモかクズかだけを俺は見ている」と。マトモであればそこから先、右であれ左であれ"自分を捨てて他人の為に頑張る"という利他性や貢献性を発揮できる。ただそれを支えてくれるイデオロギーは違うかもしれないけど。それって人間の個人的な履歴の中ではほとんど偶然によって決まってしまう部分もあるからね、それはそれなんだという発想。頭山満の発想は西部邁さんにも引き継がれていて、その意味でイデオロギーの奴隷のような存在。イデオロギーが違うからコイツは敵認定?国籍が違うから敵認定?「はい、即死して下さい」ってやつですね』

藤『そういう問題、ほんとに大変ですね。要するに状況的にずっと悪化してきている、と。社会というものが無くなって世間すら無くなって友達もいない、と。そうすると"剥き出しの生"しか無くなって、それこそ性欲とか食欲とかその辺のものしかない、と。あと将来に対する漠然とした不安だけで生きていく。ほんとに大衆社会論が描いている最悪の末人たちに日本人がなりつつある、と。その状況の中で社会科学っていうのはどこかで"どうすればいいか"という問いに対するレスポンスとして出てきたものですから、マルクスマルクスウェーバーウェーバー。デュルケムはデュルケムでそれぞれ処方箋を描いた訳ですけど、日本社会の大衆社会化がここまで進んだ中でどうしていくかについて如何ですか?見通しというか…』

宮『まず大事なのはね共同体的な、つまり仲間の記憶っていうのを持てるようにすることだと思うんですね。末人っていうのは恐らく記憶なき存在と言ってもいいと思うんです。仲間がいない、恋人がいないという人間がマトモに性欲、食欲を持てるだろうか。結局、性欲や食欲の発露も幸せや絆の中での