あきと

『むずかしいことをやさしく,やさしいことをふかく,ふかいことをおもしろく,おもしろいことをまじめに,まじめなことをゆかいに,ゆかいなことをいっそうゆかいに』

【体罰は必要?】戸塚ヨットスクール校長vs夜回り先生

体罰と暴力の違い

戸塚宏「目的が違う。体罰は教育の為。暴力は自分の利益の為。体罰をしたって自分に何の利益もない。マスコミに叩かれて損失が起こるだけ。目的の違うものを一緒にしてはいけない。マスコミがやってる議論というのは"体罰は悪"という大前提があって、それに沿って議論ばかりしているから体罰の定義も出来ない。1番の問題は善悪を知らないこと。善悪とは何か。自分たちが善のつもりになっているからおかしなことになる」

水谷修「問題の根本が全然、違う。体罰は先生が生徒に対して行うもの。DVは配偶者に対して行うもの。虐待は親が子どもに対してやるもの。こう言われます。例えばタバコを吸ってはいけない地域でタバコを吸っている人がいたとします。やめなさい、みんな迷惑してるでしょと言ってバチンと殴ったらこれは体罰ですか?完全な暴行。怪我をさせたら傷害ですよ。それがどういう訳か、夫婦同士ではDVと呼ばれ、親子間では虐待や躾と言われて。嫌な言葉ですね。学校だったら体罰。どれも暴行・傷害なんです。人様を傷つける。体罰やDVには、かつての旧日本国憲法における"夫は妻より偉い"とか"子どもより親は偉くて支配でき自分の所有物だ"とか"学校の中で先生は生徒を自分の管轄下で支配できる"とかそういう傲慢な思想がある。今の憲法の中でも体罰という言葉を残したことが間違いで、体罰なんか存在しない。すべて暴行。怪我させれば傷害。殺せば殺人。それだけのことです。愛があろうが何があろうが人様を殴ってはいけない。戸塚さんは根本的なことを勘違いしている。あらゆる人間は日本国憲法基本的人権の中で子どもであれ誰であれ同じ。偉い偉くないではなく、みんな等しく同じ人間なんです。上も下もない。それが現代の日本国憲法に書いている基本的人権の考え方です。体罰をするのは人権無視、甚だしい。道路で人を殴っているのと同じ。だって学校だったら家庭だったら憲法に従わなくていいんですか。憲法で暴力は禁止しているんですからね」

戸塚宏「権利って何なの?」

水谷修「人が生まれながらにちゃんと幸せになり、ちゃんと自分の人格を肯定され自分を守ってもらえるものが子どもたちも我々も持っている権利じゃないですか。但し、あらゆる人間が勝手に権利を主張したら大変なことになるから国民の理解の元に法律がある訳ですよ。お互いがお互いを守り合うために。その法に関しては我々が認めている以上、従わなければならないしその法を変えるならば国会議員を通して国会の場で変えていただくだけのことです」

戸塚宏「貴方みたいに権利の意味を知らない人が権利という言葉を使うからダメなんだ。権利という言葉がいつ出来たか知ってる?あれは江戸末期に出来たんだ。欧米使節団が何回か行ったでしょ。その時に向こうの文化を持ち帰り和訳しないと使えないから和訳していたんだけど、権利だけが最後に残ってしまった。日本にそういう文化が無いから。rightを萩藩の西周が権利と訳した。それが良いということで権利が流行った時に福沢諭吉が大反対した。rightは権利じゃない。2つの意味で間違っている、と。もしrightを権利と訳すと将来に禍根を残すと言っている。考えてみたら分かる。福沢諭吉は天才じゃないか。西周は単なる秀才だ。そりゃ福沢諭吉の方が正しいよ。だから福沢諭吉がrightを何と訳しているか探してみればいいんだ」

水谷修「言いたいことは分かります。要は権利と義務があって子どもとか生徒には親や先生の言うことを聞く義務があるってことが言いたいんだと思います」

戸塚宏「根本的に分かってないからそういう言い方になるんだ」

水谷修「rightには権利と同時に義務を伴うものだ」

戸塚宏「そういうことを言いたいんじゃない。福沢諭吉の訳を見ればいいんだ。通義。義に通ずる。どういう意味は分かる?