あきと

『むずかしいことをやさしく,やさしいことをふかく,ふかいことをおもしろく,おもしろいことをまじめに,まじめなことをゆかいに,ゆかいなことをいっそうゆかいに』

三浦瑠麗「卒業生・社会へ挑戦する人たちへ」(2021年3月20日)

皆さん、ご卒業おめでとうございます。これからいよいよ社会に出ていく、大学生活とは全く違う世界が開けていくと思います。皆さんがこれから踏み出していく世界は"人から必要とされる世界"です。例えば小さい時にお父さんお母さんに自分たちが「何かをしてほしい」と彼らを必要としていた。そして自分が勉強やスポーツを頑張ればよかった。ある意味、子どもの時代から抜け出して"人から必要とされる人生"に皆さんは踏み出して行かれます。勿論、初めはオンザジョブトレーニングなど教育の要素が強くて大してそんなに「必要とされているなあ」という実感はないかもしれません。けれども貴方の進む道がたとえどのような進路であったとしても結局、人間というのは生きていくにあたって人から必要とされる、それを目指して生きていくという意味では変わらないだろうと思います。

必要とされるということ。これは案外、高いハードルです。私自身、経営者になって初めて気付いたことがあります。若い頃は自分がある種の待遇を得ることが当然だと。自分に職があるのは当たり前だと考えがちでした。しかしそれが決して当たり前ではないということに次第に気付いていったということですね。つまり自分がそれだけの価値を出しているのか、というのが職業になれた後に皆さんが直面する課題になります。先進国では軒並み若年層の失業率が高く、とりわけコロナ禍で更に失業率が悪化しました。彼らの社会がより不安定化し私たちの社会が比較的安定しているのはそういった差による所も大きいということです。

日本型雇用には様々な課題が指摘されています。それは確かなのですが、コロナ禍において運良くアジアの一国として被害が限定的だったことに加えて少なくとも日本の由来の雇用型のシステムによって表の失業率が相対的に低いのは利点にもなり得ることが分かりました。

私自身は非正規のアルバイトから職業を始めました。私より年下の研究者にとっては当たり前のことです。逆に父親の世代は博士論文を書かずに優秀な人は助手から採用され、ある意味のんびりと論文を書くことができた時代です。そこまでの成果主義でもなく、そして上が下を引き上げるのが当然とされた時代でした。その代わり個人主義の度合いは低く人によっては教授の鞄持ちをしながら万年助手と言われるような立場に甘んじた方、とりわけ女性の方は多かったと聞いています。ただ経済が上り調子で限られた人にしっかりした雇用が確保されていた時代がある種の特権であることは確かなんですけれども、彼らは高度経済成長の果実を得る反対側のコストを負っていた部分もあるのかもしれません。

私は特に若い頃、自分の世代と上の世代を比較した時に比較的不遇である、と境遇のギャップが気になっていました。それゆえに見失っていたこともあります。つまり私たちは年々、出生数が減っていてより貴重な存在になってきているということです。私も1つ年上の夫も職業を転々としてきました。1回の人生だからということで自分たちが心地良く働ける環境を優先した結果でした。最終的に落ち着いたのは今の家庭的なシェアオフィスの職場です。次第に私たちの世代くらいから「1度きりしか人生はないんだ」という意識が高まってきたように思います。

私自身は5人兄弟で育ちました。私が今、自身の子どもとして持っているのは1人です。5人兄弟の生活は楽しかったんですけど今、1人の娘を育てながら思うことというのは、やはり親子のコミュニケーションはより密接であるし、関係も濃密であるということです。

縮小均衡に向かう日本社会に私たちは生きていて成長を捨ててしまうと結果的に貧しい人、機会が与えられなかった人に分配する資源も得られませんから軽々に「成長を捨てる」と言うことはできません。その一方で成長することを否定せずに、しかし生活の質とか人生の質にはもうちょっと注意深く思いを致してもいいんじゃないかなあという風に思うんですね。そんな考え方が次第に主流となりつつあるのかもしれない。

ではその生活の質や人生の質というのはどういう風に捉えていったらいいんだろうか、ということですが、私たちはまずとりわけ新社会人となる皆さんは「自己実現」というものを目指すと思います。その自己実現というのは理想形を言えば、まずやりたいことが見つかっていてそのやりたいことを達成する。つまりその手段をどうしたらいいのだろうか。成功に向けて磨いておくべきスキルは何か。ということが端的に注目されがちなんですけれども、私はまずその前の段階として自分がどういう人生を望んでいるのか。自分がどういう風に周りから必要とされたいのか。ということを考える上では自我を適切に育てる必要があると思っています。自我というのは最初に反抗期から生じますよね。その時は自分が可愛いとか自分の思い、今の気持ちが大切。ともすれば親から見るとワガママとも受け取られかねないようなものが自我の最初の芽です。そういった可愛いと自分を思わなければ自我は育ちませんが、他方で自分が可愛いだけに終始してしまえば結局、確固たる自我が育つことはなく、単なる他者の拒絶。自分の気に沿わない他者を拒絶することで自分の心の安定を得たり、あるいは単なるワガママに終始してしまうということになります。

私が40年の人生の中で(特に後半)心掛けてきたことは、すなわち他人と一緒にやっていかなければならない。でも自分の自己実現はしたいし、自我も大切にしたい。じゃあどうすればいいか。まず自分に厳しくあることで他者を含めた周りに対する観察眼を養うということ。もう一つは自分を愛することで他者に思いやりを持てる人間になるということです。とにかく自分がどういう風に他者を見るかということについては思春期に皆さんがおそらく経験されたように、まずは母親や父親に対する呵責なき分析から始まる訳ですね。

しかし他者を断罪しきっている内はまだ自分に対する観察眼が育っている状態とは言えません。つまり自分に厳しく在る、そして自分をちゃんと愛するということが他者に対してフェアに振る舞うための礎となるという考え方です。同時に私たちが生きる現代は人と人とが繋がりやすくなりプライバシーも低下しています。他者に必要とされる人間になりたいと人間は思って生きていく、と申し上げましたが実際、現代を生きているとリアルとオンラインとの配分が上手くできにくくなり人から必要とされたいと思うが余り過剰に人と繋がってしまったりオンライン空間での頻繁な承認なしでは生きていけなくなったりしています。私自身も結構なヘビーユーザーですが、インターネットに依存しすぎたり人目に晒されすぎたりすると必ず自分のリアルな生活や体調に支障が生じます。

人前に出て仕事をする女として私は学んだことがあります。たとえイナゴの大群をかき分けて進むような毎日だったとしてもそれはどこかにオフ機能を自分の中に持っておけば何とかなるんだ、ということ。そしてリアルな繋がりこそ重要であり時にはリアルな関係でも自分に害のある関係に関しては躊躇なく関係を切断することが重要である、ということです。

女性に限りませんが、時に職場で不快な思いをすることがあります。旅立ちの晴れの日にするようなめでたい話ではありませんが、そういう時にどうしたら良いのかということは日頃から考えておく必要があるでしょう。同期同士、同僚同士、人間同士私たちは助け合って生きていかなければなりません。2017年以降、世界中で「#metoo