あきと

『むずかしいことをやさしく,やさしいことをふかく,ふかいことをおもしろく,おもしろいことをまじめに,まじめなことをゆかいに,ゆかいなことをいっそうゆかいに』

若新雄純「家庭で教育はやめるべき〜無条件肯定される体験〜」

今の日本は世界的に見て学校教育の制度がすごく充実している。誰でも学校に行けて最低9年は義務教育を受けられるし、底上げという意味での質は決して低くない。ただ学校教育が万全かというとそうではない。充実しているからこそ抜け落ちる重要な問題もある。それは愛情だ。家庭では教育より愛情が大切である。つまり愛情とは無条件肯定のこと。私は若者、特にニートとよく関わっているが彼らの中ですごく染み付いている大きな格差があるとすれば、それは教育格差ではない。ニートでも社会で生きていくための基本的なリテラシーは皆、持っている。「しつけがなってない」というような人はそんなにいない。ただ、「無条件に認められたことがない」という格差を抱えている若者が増えている気がする。自己肯定感の喪失だ。学校での教育は必ず評価がセットになってくる。あるレベルに到達することを目指しているからだ。順位が付くし点数が付く。評価から逃げられない。常に序列がある。学校教育のプログラムは固定化されているので運動と勉強で違いは出ても中々、評価を貰える機会とか良い条件を貰える機会はバランスよくバラついておらず、どちらかに傾いている。だから表彰される人は毎回、表彰される。みんなのベースアップにはなっているが、どこかで比較意識が生まれる。それを変えて「全員、平等で仲良くゴールしましょう」みたいになると今度は全体のレベルアップに繋がらない。しかし最近は家庭においても学校教育的なものが侵入してきている。核家族化した中で親までも点数とか結果、評価をすごく気にしてしまっている。そうなると家に帰っても「〇〇君より低いね」とか「〇〇ちゃんはもっと高かったのに」と言われて子どもは悲しくなる。点数が取れない自分には価値がないんじゃないか、と思うようになる。屈折感が生まれるのが問題なのだ。僕は田舎出身だったので特に分かるが、家に帰ると祖父母が明るく出迎えてくれた。何も賞を貰えなくてもただ家に帰ってくるだけで100点をくれた。大家族が当たり前だった時代は父母が点数を気にしていたとしても祖父母が気にしなかった。テストの点数が良かろうが悪かろうが元気に家に帰ってくるだけで、生きているだけで価値があると伝えてくれる人がいた。

 

家庭で教育をしている場合じゃない。

 

親がするべきなのは無条件肯定だ。

 

子どもを本当に愛しているならば。