あきと

『むずかしいことをやさしく,やさしいことをふかく,ふかいことをおもしろく,おもしろいことをまじめに,まじめなことをゆかいに,ゆかいなことをいっそうゆかいに』

【宮台真司】「鬼滅の刃」が現代人に問うこと

・ヒットを読み解く方法論

元々、例えば大衆文化あるいは芸能や芸術が時代ごとに決まった型があるということは昔から知られている。ギリシャ叙事詩といえば紀元前8世紀とか。しかしそれ以降の時代は作られなくなる。ギリシャ悲劇であれば紀元前5世紀とか。今、日活ロマンポルノっていうのは無いけど70年代を通じて大衆的にポルノ映画が見られた時代がある。それも70年代で終わっている。あるいはATGというアバンギャルド系の映画。これも60年代で終わっている。

それぞれお金の流れだけじゃなくて内容に非常に明確なパターンがある。そのパターンがある時代に始まってある時代に終わる。パターンを説明する枠組みは昔からある。それは19世紀の末からある。それはマルクス主義の枠組みっていう風に言われている。

上部構造、下部構造って言うんだけど下部構造っていうのは生産消費関係つまり経済的な関係性。それに対して上部構造っていうのは広い意味で言えば文化。政治も芸術も大衆芸能も入る。下部構造、その時々の経済的な社会の在り方がそうした方言のパターンを決めていると考える。

例えば日本でも1970年代に入る頃まではそういう分析が一般的だった。鶴見俊輔を代表とする思想の科学グループがいて見田宗介とか南博とか色んな錚々たる論客がそこにいたんだけど、基本的に下部構造が上部構造を規定している枠組みだった。

60年代っていうと若者の疎外が描かれることが多い。それは都市と農村の格差問題、つまり農村の貧困問題とかあるいは急に高度成長を遂げて農業を中心とする自営業が専らだったものが、サラリーマンが増えて使い捨てというか駒のように組織の中で働く人間が増えていく、その駒になる予備軍としてのマンモス授業の大学があった。そういう構造の中で若者の疎外が描かれるってことがあった。当時は街で会うだけでホワイトカラーかブルーカラーかが分かった。喋れば訛りがあるかどうかで都会出身者か田舎出身者か分かった。なので映画やドラマの中でも見かけですぐ分かるような属性がその人の行動、考え方を決めているっていう考え方が比較的、当たり前だった。

70年代に入ってしばらくすると思想の科学の分析が残念だけど全てトンチンカン、同時代の分析については。トンチンカンに見えるようになった。経済的な状況というよりもその人がどういう人格のパターンなのかが享受するメディアを決めるようになる。

最初、マル金/マルビって言葉が出てきて根暗根明、ナンパ系オタク系っていう対比で出てくるようになる。経済状況より対人関係が得意なのかどうか。例えばモテるモテない問題について劣等感があるのか無いのかが享受するメディアのコンテンツを決めていく訳だ。モテない人がオタク的なコンテンツを享受してモテる系はそれを享受しない代わりに比較的オシャレ系のコンテンツを享受するようになる。例えばデートで観るような作品を観る。明確に分岐していく。そのモテるモテない問題は実は経済の問題とはあんまり関係ない。金持ちでもモテない奴はオタク系コンテンツを享受する。オタク系のコンテンツも新人類系のナンパ系のコンテンツも同一の人間たちが作り出したんだっていう結構、重大な問題がある。

当初は「よねあつごっこ」と僕は言ってるけど他の奴とちょっと違うぜっていう所を見せるためにナンパ系の方向に乗り出したりコンテンツを深掘りする方向に乗り出したりすることで初期のナンパ系コンテンツが出来る訳だけど、それを享受する人たちが自分がどんな人格的なリソースを持っているかによって享受するメディアを変えるようになってしまった。それを「自己のホメオスタシス」と僕は呼んでいる。